半世紀前の話1 米店・野良犬・社員株主・ササニシキ・掛売り

米 店


リタイアしてもうすぐ4年になる。あっという間に4年が過ぎたけれど、いまはコロナ騒ぎで動きがとれない毎日が続いている。

あまり活動しない日々を送っていると、ふと昔のことを思い出すことがある。少し前のように感じるのだけれど、よく考えると半世紀前のことである。半世紀後には、さすがに生きていないだろう。

シンギュラリティになれば、私が文字に残した内容もビッグデータの一部として後の時代に残るかもしれない。だから、忘れないうちに覚えていることを書いてみたい。多くの人にはあまり関心はないかもしれないが、少なくとも脳の活性化には役立つ。

(なお、ビッグデータは携帯やスマホの位置情報のようにTVでは言っているが、あれはビッグデータのごくごく一部である。あまりミスリードするのはよくないと思う。)

半世紀前にはスーパーマーケットはほとんどなく、八百屋、肉屋、魚屋、パン屋などの個人商店が集まって商店街を作っていた。いまも多く残っているのはパン屋だが、当時はヤマザキパンとか木村屋のパンを売っていたのに対し、今日では自家製石窯パンが主流である。

肉屋や魚屋はわずかに見つけることができるけれども、今日ほとんど見ることがなくなったのは米店である。それにははっきりした理由がある。半世紀前には食管法(食糧管理法)という法律があって、米店でなければ米を売ることができなかったのである。

(「米店」はこめや、と読んでいただけるとありがたい。米屋と書くと羊羹屋のような感じなので)

当時、コメの流通はきびしく規制されていたが、これは第二次世界大戦による食糧不足に端を発する。農家は収穫したコメを農協に納めなければならず、許可された卸売業者を通じて末端の米店へ。さらに、その流通価格も規制されていた。

私が就職したのは1980年だが、当時、米穀通帳が本人確認書類として有効と教えられた(さすがに、実際に米穀通帳で本人確認した経験はない)。食管法が廃止されたのは、なんと平成に入ってからである。

戦後まもなくが舞台となった映画とかドラマで、田舎の農家に直接コメを仕入れに行き、汽車で帰ってきて上野駅で捕まるという場面がある。当時、そうした直接取引は「ヤミ米」と呼ばれ食管法違反であり、見つかったコメは没収されてしまうのであった。

食管法が廃止された直接の原因は1993年の「平成コメ騒動」と、GATTウルグアイラウンドによる輸入自由化であったが、それ以前から、コメの需要減少と自主流通米の増加(銘柄米への選好集中)により、かつてのように米店が営業していれば儲かるという時代ではなくなっていた。

米店に限らず、営業するのに免許が必要で、仕入れ値も販売価格も決まっているなら看板を掲げていれば儲かる。現在のように流通も価格も自由化されてしまうと、米店だけの商売でやっていける訳がないのである。

販売価格が決まっているから、他店と差別化を図ろうとすればサービスによる他はない。だから、米店の多くは「ご用聞き」という形で各消費者と直接のルートを持っていた。重い品物だから、家まで届けるのは当り前であった。販売ルートと顧客データを持っていたのである。

だから、宅配便事業が商売として成り立つのではないかと考えたヤマト運輸が、最初に集荷拠点として代理店にしたのが米店だったのである。(ヤマトはもともと三越の配送業者であったが、三越の業績悪化により他にビジネスチャンスを求めなければならなかった)

千葉ニュータウン周辺でも、20年前には成田ボンベルタに米店があった。銘柄米を専門に売っていたのでかつての米店とは違うけれども、しばらく前になくなってしまった。おそらくいまの若い世代は、米店を見たことがない人もいるのではないだろうか。[May 28, 2020]

米穀通帳とか、外食券とか、食糧管理制度に伴うものはすでに歴史上の事柄になった。「犬神家」で石坂浩二が、外食券ありますかと聞かれてコメを出す場面など、何の意味だか分からない人も多くなっているのではないだろうか。

かつてはどこの商店街にもあった米店ですが、最近は銘柄米を専門に売るお店くらいしか見なくなった。(資料画像)


野良犬


先日近所の里山を歩いていたら、野生のキジと出くわした。千葉ニュータウンは自然がまだまだ残っていて、散歩していると時々こうしてキジと出会うことがある。二十年前には向こうから全速力でウサギが突進してきたが、最近は見ない。

半世紀前、私が子供の頃住んでいたのは新興住宅街であったが、タヌキは見かけたもののキジやウサギを見ることはなかった。田圃に行けばメダカやタニシ、もちろんアメリカザリガニもそこらじゅうにいた。

それらの生物よりも印象深く記憶に残っているのは、やたらと野良犬が多かったことである。飼われている犬でもロープやリードなしの放し飼いという奴らがいたのだけれど、野良犬は首輪をしていないのですぐ分かる。

子供同士で空き地に集まり、原爆(という名前のボールゲームがあった)や竹馬で遊んでいると、どこからともなく野良犬が現われて、狂暴に吠え掛かるのであった。その頃分譲中の空き地は至る所にあったから、誰かの家というのではない。にもかかわらず、なぜか犬が現われるのである。

いまの時代だと、家で飼われているのはほとんど血統書付きの純血種であるが、その時代は血統書付きなどごく一部の金持ち犬に限られていて、他は例外なく雑種犬だった。避妊手術などしていないので、野良犬がどんどん増えていくのである。

また、現代の犬はペットとして飼われているので、番犬としてうるさく吠え掛かる犬は多くない。犬が吠える場面はほとんどが散歩中に気が合わない犬と遭遇した場合で、人間相手だとたいてい尻尾を振って友好的な雰囲気であることが多い。

ところが当時の野良犬というのは、当然のことながらしつけなどされていないし、友好的でもなく、しかも雑種だから見た目もかわいくない。そういう連中が子供たちを威嚇するものだから、ボール遊びもそこそこに逃げ出さざるを得ないのであった。

現代でも福島の原発付近や沖縄の米軍基地近くには野犬の群れが確認されるらしいが、住宅地で野良犬を見ることはほとんどない。狂犬病予防の観点から全頭に予防注射が義務付けられたとともに、自治体が野犬処分に力を入れたからである。

私の記憶では、1964年の東京オリンピックと70年の大阪万博を契機に、野良犬の数が大きく減った印象がある。サッカーワールドカップで大阪の路上に布団を敷いて寝る人がいなくなったのと同じで、国家的イベントに備えて環境整備が大々的に行われたのだろう。

よく知られるように、犬は狼を家畜化して、番犬や獣害予防のため人間の集落内で飼われるようになったものである。ネコはネズミを捕るという本来の目的がなくなってもペットとして安泰であり、野良猫はいまでもいくらでも目にすることができる。

対して犬の場合は、本来の目的で飼われる犬は少なくなり、介助犬やセラピー犬として生きていかざるを得なくなっている。ネコはありのままでそれほど不自由はなさそうだが、犬の場合は生きていくのが難しそうである。[Jun 24, 2020]

総会屋と社員株主

先月、株主総会のお知らせを見ていたら、時節柄仕方ないとはいえ、昔なら考えられない記載があった。

いわく、「株主様におかれましては、極力、書面またはインターネット等により事前に議決権を行使いただき、株主総会への当日のご来場をお控えいただくよう強くお願い申し上げます。」

昔だって、会社側はすでに過半数の委任状を事前に確保しているのだから、株主総会など開きたくないのが本音である。しかし、商法の定めるところ株主総会は開催が必須であるので、仕方なく開いていたのである。

いまの人達は、100万株の株主は1000株の株主の1000倍の発言権があるのは当然と思っているし、それが国会にまで適用されているのはあまりよくないことだが、昔は違った。

株主総会に出席している以上、一人は一人。1000株しか持っていなくても経営方針に意見が言えて当然だし、疑問があれば質問して回答を求めることができる。それが嫌なら株式公開するなというのが原則であった。そこに、総会屋と呼ばれる人達の突け入る隙があったのである。

総会屋と呼ばれる人達は、さまざまのルートから会社側の秘事を入手し、それを株主総会で爆弾発言することで経営側を威圧し、自分達に有利な取り扱いを求めるのを常としていた。

だから、上場している株式会社は警察OBや検察OBなどその方面に顔の利く面々を普段から総務部に配属しておき、総会が始まる前に話をつけておくのが当たり前であった。 しかし、総会屋にも大小あって、すべての総会屋と事前に接触できるとは限らない。上場企業の株主総会を妨害して名前をあげようとする連中だっていないとは限らない。

そういう時のために、若手職員が株主総会の多くの席を始まる前から占拠しておき、危ない連中が役員に近づかないよう身をもって盾になるのであった。

当時は若かったのでそういうものだと思っていたし、その間だけは通常勤務から解放されるのでありがたいとすら感じていたけれども、よく考えると連中だって直接の暴力に訴える訳ではないし、質問だろうと動議だろうと規則に則って処理すればいいだけのことである。

それを、受付前から職員株主だけ会場に入れて、経営陣に近い席を占拠させておくのだから、肝っ玉の小さいことだし、そもそも株主間の公平に反している。まあ、職員の多くは株主でもあるので、いること自体が問題ではないのだが。

時は移り、現代では株主総会に出席しないよう強く推奨しても、うるさく言う人達はいないようである。もともと株主総会などというものは有名無実であると言えばその通りなのだが、今は昔としか言いようがない。[Jul 16, 2020]

ササニシキ

今年も収穫の季節が近づいた。近所の田圃を歩いていると、今年は田植えが半月ほど早かったので、長梅雨にもかかわらずに穂が出始めている。「みのるほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」の句が思わず口をつく。

千葉県でも、圧倒的に多く作付けされているのはコシヒカリである。「コシ」ヒカリというくらいで昔は新潟中心に作られていた銘柄なのだが、いまや全国各地で人気があり、コシヒカリをもとに作られた新銘柄も続々と開発されている。

今から50年前、コシヒカリと並ぶ人気銘柄米があった。ササニシキである。コシヒカリが新潟なのに対し、ササニシキは宮城を中心として作られていた。コシヒカリが「ふっくらもちもち」した食感であるのに対し、ササニシキは「さっぱりすっきり」した食感であった。

ご飯だけで食べるならば、コシヒカリの方が味わいがあったが、ササニシキも自らを主張しすぎないおいしい米であった。お寿司屋さんにササニシキを好む人が多かったというのも、わかる気がする。

ところが現在、ササニシキをマーケットで見かけることはほとんどない。現代人にとって銘柄米といえば、コシヒカリ大前提でどこの生産地かという点に絞られているが、半世紀前にはかなり状況が違ったのである。

さらに、40年ほど前には西日本産のコメというのはあまりおいしいものではなかった。現在では全国どこでもコシヒカリ系の銘柄が作られているけれど、当時は生産量が多く病気に強いのが一番で、味は二の次だったのである。

米店のときに書いたように、当時は食管法があって、農家はコメを作れば農協が決まった金額で引き取ってくれるのであった。すでに減反政策は始まっていたものの、作付けを減らして補助金をもらうか、収穫を多くして収入を多くするかの違いだけである。

だから、農家としても農林省や農協が推奨する銘柄を作っていればよく、より高く売れるコメという観点はなかった。だから、農林何号とか、日本晴とか、多収穫で病気に強い銘柄を多く作っていたのである。

食管法の廃止と輸入自由化によって、農家の銘柄選択は大きく変わった。コシヒカリのように収穫量より味のいい品種が好まれたことと、もう一つにはササニシキが平成のコメ騒動の際冷害で不作だったという要因があった。

ササニシキはもともと東北地方での作付けを前提に品種改良された銘柄であったが、それでもやはり病気に弱かった。他の品種より背が高く、寒冷な気候や強風によって倒れるものも多く出た。

そして、コメ自体の味ではコシヒカリを好む消費者が多かったので、農家の作付けもコシヒカリやコシヒカリをもとに品種改良された銘柄(ひとめぼれ、あきたこまち、きらら397など)に移ってきた。下のグラフは2000年までのものだが、すでにコシヒカリとは大差がついている。

今日ではこうした統計はほとんどとられていないようだが、ササニシキ単体で作っている水田はほとんどなくなってしまったと思われる。お米ひとつでも、半世紀の間にかなり変わってしまったのである。[Jul 28, 2020]

かつてコシヒカリと並ぶ両横綱と呼ばれたササニシキ。平成に入ると急激に収穫を減らし、今日ではほとんど作られていない。



掛売り


以前、米店のことを書いたのだが、それと関連して。

私が育った家はけっして金持ちではなかったし、4人家族なのでそれほど大口の需要がある訳でもないのに、歩いて15分くらいかかる米店や酒屋からわざわざお店の人が来ていた。俗に「ご用聞き」と言っていた。

いまの人からは想像もできないだろうが、当時はほとんどの家庭に自家用車はなかった。だから、米とか酒とか重い品物を買う時には、店の車で届けてもらう以外に手段はないのである。

注文するにしても電話がないので、店まで歩いて行って「二級酒の一升瓶、2本お願いね」とか注文するのだが、店の方でも前にいつどのくらい注文したか分かるので、その頃になるとお店の人が「何か足りないものありませんか」と聞きにくるのである。

だから、今の訪問販売とは全く業態が異なる。通信手段や輸送手段がお客の側にはないので、店がお客に代わってそれらの機能を提供するのである。もちろん、実店舗があるので、お客の側が何かのついでに行くこともある。

こうした場合、商品を配達するごとに代金を支払うのがいまでは普通だが、当時は月末締めでひと月分をまとめて支払うのが普通であった。専門用語で「掛売り」と言うが、会社同士なら当たり前なように個人客でも広く行われていたのである。

いまの若い人達だと、こういう商習慣が半世紀前まであったと聞くと驚くかもしれないが、現金掛け値なしは江戸時代に三井呉服店が始めてすぐ広まったのではない。掛売りは、ついこの間まで現役だったのである。

私の経験で一番最後まで残っていた月末締めの掛売りは、クリーニング店であった。当時、3日に1回くらい店主が家まで取りに来て(サラリーマンなのでワイシャツとかスーツである)、前回集荷した品物を持ってくる。月末締めで大体3千円とか5千円だから、小口もいいとこである。

思うに、こうした各家庭への直接販売が少なくなったのは、専業主婦が急速に少なくなって昼間に訪問しても留守の家庭が多くなったことが一つ。もう一つは、電話や車があるのは当り前になって、お客の側がより安価な店を選好するようになったからだと思われる。

サザエさんの時代設定は半世紀前よりさらに古いので、サザエさんは専業主婦であるのみならず実家にそのまま住んでいる。三河屋のサブちゃんがお酒の注文を取りにくるのは、かつては当り前の風景だったのである。

ちなみに、昔は酒屋ごとに扱う銘柄はほぼ決まっていたので、「一級酒」とか「二級酒」とか注文したように記憶している。銘柄で注文することは一般家庭ではあまりなかったが、思うにどこのメーカーの酒もたいして味に差がなかったのではないだろうか。[Sep 2, 2020]

御用聞きはサザエさんの中だけの存在になってしまいました。ちなみに、ご用聞きが普通であった時代に一般家庭にガス給湯器はありません。

p.s. 「半世紀前の話」、続きはこちら

コメント